673.死生観
2022.12.09
ブログを読んで下さるみなさま、いつもありがとうございます。六本松地区で開業していますまつばら心療内科の松原慎と申します。
武士道とは死ぬことと見つけたり、と言いますが、現代の心理学や精神医学では、通常の相談業務や精神療法の中に死生観が取り入れられることは少ないようです。もちろん、近年は緩和ケアや生殖医療の発展により、専門的なカウンセラーなどがアドバンストとしてそれらの勉強を深めている人もあります。
しかし、受容・共感・傾聴などという基本の中に加え、死生観というものも必要なのではないかと私個人は思っています。
私自身、寺の子という育ちですから、どなた様が亡くなった、これから枕経だ、お通夜だ、葬式だと、寺院は途端に忙しくなります。こたつでテレビを見ていた親がバタバタと法衣に着替えて出て行き、枕経・お通夜・お葬式・初七日などをこなしていきます。どんな人が亡くなったのかという話は、帰宅後に、こんなお人柄で、こういう功績があったとか色々こぼれ話を聞くわけです。亡くなった時のプロファイルは、他人から見たその方の人生の要約でもあります。もちろん、話し手の個人的感想というフィルターが掛かっていますが。
法要というものは、死者の鎮魂を行う場ではなく、人は必ず死ぬものだ、という前提を大切な人が思い起こさせてくれる場であり、大切な人が亡くなった今、残された生きている人達が、仏の教えに触れる機会でもあります。これはキリスト教であれ神道であれ、鎮魂の場であれ、弔いの場であれ、人が大切な人の死に触れるということは変わりありません。
そしてそこからは、自分の死生観・宗教観などから、自分がどう生きるかを問われる場になります。
現代社会において、死に触れることは忌避されていて、YouTubeでもよく「タヒぬ」(死ぬを分解している)などと隠語を使っていますが表記を忌避することに何の意味もありません。死は忌避するものではなく、正面から向かい合うものです。向かい合えない自分というのは、平穏な日常について、死生観についてあまりにも回避を続けすぎているということになりますし、いざ死に出会った時に向き合えない、などということになります。
良く死ぬためには、良く生きていく必要があります。そして、死は希望しなくても突然訪れます。
いつか来る死ぬ日までに他愛ない日常をどう大切に生きるか、ということを本来常々考えておくことが大切です。
忙しさにかまけて棚上げしていることの多い死生観ですが、ご自身のやり方で構わないので、時にしっかりと向き合ってみられてはいかがでしょう。