1137.骨壺
2024.03.24
ブログを読んで下さるみなさま、いつもありがとうございます。六本松地区で開業していますまつばら心療内科の松原慎と申します。
最近は、色々な宗教が容認されていますから、新興宗教もオウム真理教ほど攻撃的なテロをしない限りは、かなりの範囲で寛容に受け容れられているようです。その辺はさすがに八百万の神が住まう日本、聖おにいさんのように、立川市のアパートにシッダールタとイエスがルームシェアしていても許されてしまうようです。
宗教寛容は、古来から有る日本の優れた文化であり、十字軍やらガザやら宗教的な相違が生み出す殺戮(そればかりが原因ではないのかもしれませんが)というものは枚挙に暇がありません。
それと同時に、信仰心が薄れることはまあ仕方のないことかもしれませんが、公徳心や道徳観が損なわれていくと少し良くないかもしれません。
特に現代は死を忌避する傾向にあります。
しかし、死は忌避したり隠したりしてもどうしようもなく、必ず訪れてくるものなのであり、むしろ、日常的に死とは何かを考えることは生とは何かを考えることにつながると思っています。
なかなか治らない患者さんに、親族やペットの骨壺が家にないか、時々伺っているのですが、割と結構出てきます。
骨壺は最低でも仏壇ですが、自宅におくものではありませんし、テレビの下なんかが割とよくあるのですが、これも良くないので止めましょう。
骨なんかカルシウムじゃないか、と割り切れるならまだ良いのですが、人骨になると、勝手に埋められませんし、散骨するにも役所の許可を取る必要があります。確かに我々の骨は、一部はおじゃこだったでしょうし、一部は牛乳やヨーグルトだったかもしれません。古代は恐竜の骨だったかもしれません。
しかし、親族の骨となると、どうしても「その人の骨」と思ってしまう情念が沸いて参ります。
納骨はそのうち、と思っていても家に置いているだけでも、その人の骨がそこにある、死がそこにある、というのは自分自身のお迎えを早めることになりかねません。自分の宗派のやり方で良いので骨壺は家に持ち込むことなく適切に処理しておきましょう。